写しと贋作とレプリカの差 2.贋作
この記事は「写しと贋作とレプリカの差 1.レプリカ」の続きです。
今回は「贋作とはどういうものを言うか?」です。
一般的な日本語では贋作と言いますが、鑑賞会や鑑定会など刀の集まりで使われる言葉では「偽物(ぎぶつ)」と言います。
今回は「写し と 贋作+レプリカ」という線引きになります。
はい。本物であるものと本物ではないもの。
「写し」の山姥切国広は「九州宮崎県出身の国広が作りました」と茎に書いてあって、実際に国広が作ったものなので「本物であるもの」です。
贋作が多いことで有名な虎徹で言うと、値札に「長曽祢虎徹」と書いてあるもののうち、江戸時代に生きていた長曽祢興里という人が作ったものだけが「本物であるもの」。それ以外は全て「本物ではないもの」です。楽天市場やAmazonで売っている「虎徹の模擬刀」が本物でないことは言うまでもありません。
前回の図と組み合わせるとこうなります。
「日本刀であるが、本物ではないもの」が贋作に当たります。
タイプ別贋作
分かりやすくするために「虎徹」を例にしますが、贋作にも何種類か作り方にタイプがあってなかなか面白い世界です。
- 折れた本物の茎部分を調達して別の刀工の刀身に溶接する。
- 同時代の別の刀工の作品に「虎徹」の銘を入れる
- 後世の刀工がわざと虎徹っぽく作ったものに「虎徹」の銘を入れる。
- 別の巨匠・名工の作品に「虎徹」の銘を入れる。
1.は茎部分をまるごと繋いだり、銘の部分だけ切り取ってつないだりするそうです。でも、つなぎ目がバレバレだったり錆び方に差があったり、雑な仕事だとすぐにバレちゃいますね。
2.は「時代偽物(じだいぎぶつ)」と言います。なぜ同時代の刀工の作品を使うかというと、時代が同じ=形が似ている、からです。日本刀は時代ごとに流行の形とスタイルがあるというのは 「最近流行りの刀」の最近って? でも書きました。基本的なスタイルが似ていると無理に違う時代の刀を偽装するより最初からそれっぽく見えるんですね。
このパターンでは、虎徹の師匠と目されている和泉守兼重の影響を受けていて、虎徹より少し上の世代、作風も似ている大和守安定の作品が使われることがよくあるそうです。
3.は写しを作るスキルの悪用ですね。お金に困った刀工がやらかしてしまった表立って言えない仕事だったり、刀屋さんが刀工を言いくるめて無銘で作らせた虎徹風の刀にこっそり虎徹銘を入れて販売しちゃうパターンです。
また、これの変則パターンの話を鑑定会の雑談で伺いました。
江戸時代の中頃より少し後、虎徹というブランド刀がすごいらしいという話を聞いたお金持ちだけど刀のことはよく分からないお父さんが「我が家にも虎徹が欲しいぞ!」と思い立ちます。
そこで、刀屋さんに「虎徹をくれ!」と言いますが、ブランド刀はそうそう手に入るものではありません。お父さんは「じゃあ刀を作ってもらいたい。そこに虎徹の名前を入れてくれ」とオーダーメイドを注文します。「えー…(困惑)」となる刀屋さんと刀工。調子に乗ったお父さんは「せっかくだからぐわーっと反ったカッコイイ形、刃文はこんな感じで頼む」と勝手なことを言い散らかして完成を待ちます。
そうして出来上がるのは、明らかに虎徹じゃない虎徹。オーナーも販売した人も作った人も関係者が全員真っ赤なニセモノと知っている、贋作と言うのもかわいそうな「僕の考えた最強のこてつ」です。
ただ、そんな風にして作った物もお父さんが死んで二百年くらい経つと、それが「僕の考えた最強のこてつ」であると知っている人が誰も居なくなっていたりするわけです。
そして、子孫である現代のお父さん(やっぱり刀のことはよく分からない)が「うちの蔵からなんか出てきたー!カッコイイし虎徹って書いてある!これは虎徹だ!!」と盛り上がっちゃう…なんて素敵なハートフルストーリー。
4.は所有者の方も「あえて持ってる」パターンだとか。長曽祢興里の弟子(もしくは息子)の長曽祢興正の作品や、幕末の江戸の名工・源清麿の作品に虎徹の銘が入っているんだそうです。
その時代の売れっ子の作品なので、本人が食うに困ってやらかしたのではなく、きっと不心得者の刀屋さんの仕業なんでしょうね。物として出来が良いと「これだけ出来が良いんだし本物だろう」と思っちゃう心の隙を狙うのかもしれません。
そして、現代人の視点では「源清麿の作と思われる虎徹銘が入っている出来の良い刀として持っておこう」と思う作品だったりするんだそうです。源清麿は四谷正宗という異名があったり、すごい分厚い写真集が出てたり、生誕200周年記念展が開催されたり、NHKの「美の壺」で紹介されたりする幕末のビッグネームなので、なんとなくその気持ちは分かるような気がします。
贋作にもロマンがある…かも
がんさくがんさくと言いますが、とても良い出来の「有名な虎徹の贋作」クラスになると、業界の方たちはどこの誰が持ってるか大体把握していて、その歴代の持ち主が誰かもみなさんご存知なのだと小耳に挟みました。なので当然持ち主の方が手放されたら「あれが市場に出てきたぞ」となるわけです。
本物だけじゃなくて「よくできた贋作」までリスト化されてるってすごいブランド力ですね。
以前鑑定会で「偽物鑑定」の機会がありました。間違い探しみたいで面白かったです。特に二代目兼定(之定、歌仙兼定の作者)の偽物の決め手として解説いただいた「銘の字が之定にしてはきれいすぎる。之定はもっと字が汚い」に思わず吹き出したり。
正統派の愛刀家の方からすると贋作はけしからんものかもしれませんが、昔の人の無駄に高いクリエイティビティが垣間見える面白いアイテムのようにも思えます。
あの人はどうなんでしょう?
さて、ゲームに登場する自分で贋作って名乗っちゃう長曽祢虎徹さん。
彼は本当は誰の作品なんでしょうね?
正規の武士ではなかった近藤勇が買える現実的な選択肢として挙がるのが源清麿ですが、虎徹と時代が近く贋作を作られやすい大和守安定、っていうストーリーも楽しい想像です。あのぱっと見かわいい安定と鉄腕DASHの画面に混ざれそうな長曽祢さんが実は同じ刀工の作品とか絵的に面白いですよね。
はたまたこんな想像も。
源清麿の普通の作品なら新々刀の形をしているので虎徹とは明らかに形が違うはずなんですが、新々刀の刀工は復古主義を掲げたせいか、様々な時代の刀の写しを作っています。
そういうデモンストレーション用作品の中に源清麿が作ったすごく出来の良い「虎徹風の刀」があったとして、出来が良かったせいで虎徹の贋作にされていたとしたら。そして京都へ上洛せんとする近藤勇の目に留まり、贋作と分かった上で彼はその刀を買い求めた…というストーリー。漢気にあふれてますね…。
このストーリーだと、二人とも出来の良い写しでありながら、それぞれの道に分かれてるキャラ同士の会話はどんな風になるのか妄想したり。
かたや写しの名品としてきちんと扱われてるけどそれがコンプレックスになってるまんば。かたや出来の良い写しだったのに贋作になってしまった、むしろそこにアイデンティティを確立している長曽祢さん。
そこへ真作至上主義の蜂須賀くんと真贋不明の堀川くんが混ざると大変なことに。
長曽祢さんの兄貴力が炸裂して少年マンガみたいなことになりそうですね。わくわく。
誰の作ったか分からないものだけに想像の余地はたくさんあります。
長曽祢さん推しの方にはぜひ、そのあたりを追求していただきたい所存です。
次回は「写しと贋作とレプリカの差 3.写し」です。
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